• 投稿者:
  • 投稿カテゴリー:コラム

突然ですが、このお菓子の名前は…


これは当社の尾竹橋工場にほど近い町屋駅前にある、「博多屋」の今川焼きです。

(かなりボリュームがあります。)

この今川焼きは、代表的なもので「大判焼き」、「回転焼き」、「まんまる焼き」など実に様々な別名で呼ばれることで有名ですが、それは地方によって非常に多岐にわたり、なんと33種類ものローカルネームがあるそうです。

ローカルネームの中には「リング焼き」や「カルチャー焼」や「人工衛星饅頭」などといった、かなり実物のイメージと異なる名称や、どら焼き、おやき、きんつば、焼きまんじゅう、揚げまんじゅうなど全国区では全く別の食べ物を指す名称もあります。

この今川焼きは今から300年ほど前に、現在の東京都神田の今川橋付近で売り出され、材料もシンプルであったため、甘味の少なかった当時ではたちまち大人気になり、多くの「派生形」が誕生しました。

今川焼きは「たい焼き」「人形焼き」へ


その派生系とは、例えば「たい焼き」、「人形焼き」などがそれです。

たい焼きは今川焼きの登場からだいぶ後の明治時代、鋳造技術の進歩とともに 現れました。当初はなんと鯛ではなく、亀を模した形状をしていたそうで、今川焼きを縁起物の形にしていくブームの中で誕生したもののようです。

その中には福の神を模したものなど、人型のものも登場し、それは「人形焼き」となりました。(なお現在の浅草名物の人形焼きは、元々浅草の五重塔や雷門などを模した「名所焼き」と呼ばれていたもので、やがて人形焼きから名前だけが受け継がれたそうです)

そしてその中でも鯛を模した、たい焼きは皮が薄くパリパリになる部分などが受け、今川焼きを差し置いて一躍人気者となりました。

・お好み焼きのような具材を今川焼きの型で焼いた「大阪焼き」も派生形の一つです

そして今川焼きは海外にも派生形を持ち、特に台湾では「紅豆餅」の名で親しまれ、タピオカを入れてモチモチにしたり、ソーセージや菜脯(台湾風切干大根)を入れたいわゆる「食事系」が生まれたりと独特の進化をしており、またそれが日本に逆輸入されたりする動きもあるそうです。

まさにお菓子界の「千の顔をもつ英雄」ですね。

「氷中花」と「水中花」


今川焼きがいくつもの名を持つように、当社が平成9年に商標登録した「氷華」ですが、これもまた「花氷」、「氷中花」、「創作氷」、また単に「氷柱」と呼ばれることもあります。

氷華と同様のものを示す名称で、俳句で夏の季語となっているのは「花氷」であり、NHK俳句でも落語家の林家たい平が「あの刻を 遠ざけていく 花氷」と風流な句を詠んでいました。

しかし最も広く知られている名称は「氷中花」だそうです。これは、もともと江戸時代のころより「水中花」という、コップなどに沈め、水を吸って開く紙製の花などの玩具があり、どうもこれを凍らせて飾ったものが「氷中花」の原型となったようです。

国民民俗学博物館データベースより「水中花」

おそらく 木片(かんな屑)などを着色して作成されていると思われるが、詳しい材質は不明。

残念ながら水に漬かって花開いた状態を収めた写真はなかった。

水中花はフランスの作家マルセル・プルスートの名著「失われた時を求めて」にも登場し、作中主人公が 食べたマドレーヌの匂いと味がきっかけで、過去の記憶が鮮明に蘇る、所謂「プルースト効果」の語源となった有名なシーンがあります。

その記憶が鮮やかに蘇っていく様子を、「ちょうど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙きれを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるものになってゆくものがあるように…(以下略)」と水中花を例えに使用しています。

小野田商店にて試作品として作られた氷華。

ガラス製品を閉じ込めているが、割れ物は氷に入れると凍結圧でひび割れることがあるので扱いが難しい。

お土産屋に売られていた、真珠貝入りのレジン製水中花。レジン製水中花は、「水中花シフトノブ」というカードレスアップの流行を生んだ。

また、時代が進み 1980年代になると、透明な合成樹脂の中に物を封入した、いわゆるレジンアートも普及していったため古くからの水中花デザインの系譜を受け次ぐ、レジン製「水中花シフトノブ」が誕生しました。

80年代はまだMT車の普及率がAT車より遥かに多かったため、MT車用のシフトノブアクセサリーとして発売された水中花シフトノブは、当日はまだ盛んだった車のカスタム文化と合わさってブームとなりました。

しかしその後AT車の普及と、車のカスタム文化の衰退とともに水中花シフトノブも次第に姿を消していき、現在ではトラックのコラムシフトのアクセサリーなどとして僅かに見られる程度で、発売していたメーカーにおいても生産終了となっています。

「氷中花」のはじまりと広がり


水中花とは別に、まだ冷房が発達していない時代においては、人々が集うところに何も入っていない氷柱を置いて涼を取るという文化があり、特にデパートなどでは、エントランスに置かれた氷柱に子供たちがあつまり、触って冷たさを楽しむ光景がよく見られたようです。

・当社では「オモチャ氷」と呼んでいるものですが古くは「物入り氷」とされ同様にデパートなどに置かれていました。

この、人の集まるところに氷柱を置くという文化と、ならばより華やかな方が良いと先述の水中花を凍らせたものとが氷中花、花氷の始まりとなり、やがて紙や木片でできた水中花から、合成樹脂や布製の造花、時には生花を使ったものなど、中身も変わっていったようです。

これらを最初に作り始めたのは誰なのか確定的にはわかりませんが、残っている古い記録では、1887年(明治20年)に日本資本最初の製氷会社である東京製氷の築地工場に、後に大正天皇となる当時の皇太子殿下が行幸なされた際に、氷中花の製造の様子をご覧になり、大変お褒めになられたそうです。さらに明治天皇へおみやげとして氷中花を持ち帰ったそうです。

これ以降、東京製氷は宮内庁の指定工場となり、まだ頻繁に使われていた天然氷から機械製氷の氷に需要が切り替わっていくきっかけにもなったといいます。

「氷中花」は歌の世界にも


また、中島みゆきさんの歌に「氷中花」というものがあり、これもまた「氷中花」という名称が普及する要因になったようです。

時代はかわり、 冷房は氷冷からエアコンになり、透明なアートといえばレジンというようになりましたが、来年の夏はこの電力もプラスチックもフリーな、昔ながらの涼を楽しんでみるのはいかがでしょうか?